※過去の記事の転載です。

 

 カクヨム異聞選集が開催されるようですね。

 

 応募要項によれば「実体験に基づくオリジナル作品のみ応募可能」。

 これは実体験を語ったもの限定なのか、実体験をベースにした創作なのかわかりかねますが、今回は私がお寺さんから聞いたお話をひとつ――。

 

 

「亡くなった方が、みずからご挨拶にくる」

 

 思わず、え? と聞き返したくなるお話です。

 

 お寺さんおっさんが言うには、

 

 突然、誰もいないのにピンポンが鳴ったり、電話が鳴って出ると切れていることがある。

 そういう時は、しばらくすると“誰それが亡くなったので枕経まくらぎょうをお願いします”と連絡があるらしく……。

 

 今では、そういう事があると、先に枕経の準備をして連絡があるのを待っているとか。


 

 お寺さんは、しみじみとおっしゃいました。

「あれはね。亡くなられた方が、自分でお願いに来てるんだよ」

 

 決して嘘を言っているようには見えません。

 不思議ですね。他の人が言うと信じられませんけど、お寺さんが言うと不思議と納得できてしまいます。

 

「怖くないんですか?」

とおうかがいすると、笑いながら、

「まったく怖くないですよ。檀家さんですし……。むしろ、ありがたいなぁって思っていますかね」

とおこたえになりました。

 

 幽霊と聞くと、私なら怖いですけど。多くの方の引導をされた、お寺さんならではの言葉でしょうか。

 

 科学が発達して、論理的な思考が当たり前になっている私たちにとって、幽霊という非科学的な話はどうしても信じられません。

 

 けれども、現実には説明のつかないこともまだまだあるようです。

 

 さて、この話を元にカクヨム異聞選集に応募しようかと思ったものの。

 

 オチ無し、盛り上がり無し。

 ぜんっぜんっ、物語にならない。

 

 でも体験談って、そういうものかもしれません。

 

 ちなみに、ほかの体験談だと、かつて京都に住んでいた1年の間に2回も金縛りになったことが……。

 あれも夜、寝入りばなにいきなりだったから、まったく脈絡もなく、これまた物語にはなりません。

 

 もちろん、京都は戦乱つづきの土地柄ですから、何が起きてもおかしくはないでしょう。

 平安時代には怨霊におびやかされていましたし、私が住んでいた頃には、たまに貴船神社の林から藁人形が発見されたりするとか。

 

 ちょっと脱線しました。

 さて皆さんは、お寺さんのお話をどう思います?

 怖い? 怖くない? 信じられない? 不思議?

 

 ちなみに葬儀の後に来る場合もあるらしいですよ。

 その場合は、遅くとも四十九日までに来るらしく……、「四十九日の忌明けまでは、しっかり御回向しましょうね」と。

 

 さすがはお寺さん。話の締めもしっかりしているようです。


 

※京都ではお寺さんのことを「おっさん」と呼びます。

「道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨足が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た」

 

 川端康成さんの『伊豆の踊子』、冒頭の名文です。

 

 先日、カメラを手にこの天城峠あまぎとうげ(旧天城トンネル)に行ってきました。

 上を見上げると、葉っぱが透過光に輝き、緑のトンネルには天然の日傘のように優しい光が立ちこめている。

 思わずシャッターを切り、美しくも、どこか優しさを感じる光景を写真に収めることができました。


 

 私たちが色を認識するシステムは、モノに光が当たり、その反射した光が私たちの目を通して脳に投影されて認識をします。

 

 この色を認識するシステムについて、ミシェル・パストゥローの『ヨーロッパの色彩』(石井直志・野崎三郎訳、1995年、パピルス)には、次のように書かれていました。

 

「この私たちの目に代わって記録装置(カメラやビデオ)が用いられると、多くの物理学者や化学者はその記録された色彩も色と考えるが、哲学者や人類学者は光だと考える」(要約・p35)


 

 はたして写真に記録された色彩は、色なのか、光なのか?

 そして、現像された色は、はたして本当の色なのか、虚色なのか?

 

 写真を撮る人にとっては、興味深い問題ですね。

 

 ◇

 続いて『ヨーロッパの色彩』から、

 

 パリの大きな画材店。油絵の具売り場の責任者は、お客さんに色名の書かれていない色見本を見せて絵の具を選ばせているそうです。

 お客さんはそれを見て色を選ぶ。ところがその後でその名前を教えると、とたんにその絵の具はいらないということがあるそうです。(要約・p38)

 

 自分で欲しい絵の具を選んでおいて、名前を聞くやいらないという。なぜそのようなことがおきるのでしょうか?

 

 ミシェルがいうには、絵の具の名前を聞いた途端に、記憶にあるその色が呼び出され、色見本を上書きしてしまうからだそうです。


 

 少しややこしいですが、カメラ趣味の方は記憶色に調整することといえばわかるかもしれませんね。

 

 撮影した写真の色と、記憶にある色との異なり。

 現像の際に、彩度やホワイトバランスなどを調整して、記憶にあるその色に近づけたりします。

 同じことが絵の具売り場で起きていたというわけです。

 これもまた、色をめぐる虚と実のエピソードといえましょうか。

 

 ◇

 そもそも色という言葉は、古フランス語・中世フランス語では、

「色という語はうわべ、虚飾きょしょく、変装、策略、欺瞞ぎまん(語源的にラテン語colorは隠すを意味する動詞celareの系列に入る)にしばしば結びつけられる語」(p35)

であるそうです。

 

 またフランス語は、動詞コロレ(colorer)とコロリエ(colorier)を注意深く区別しているそうで、こういう区別は英語にはありません。

 コロリエは、単純に表面に色を塗ること。

 コロレは、ある色をあたえることであり、同時に特に色合いを加えること。

 

 そのためコロレには数多くの譬喩ひゆ的な意味が存在します。

「輝き、生彩、活気をあたえる、あるいは化粧する、美しくする、独創的にする、魅力的にする」(同)

 

 なるほど、単に塗ることと与えることの違い。芸術を大切にする国の方は、本質的な意味の異なりをきちんと言葉に表しているわけですね。

 お化粧がコロリエであれば、そのお化粧は単なる虚になってしまうでしょう。

 ですが、コロレであれば、そのお化粧はその人の決意や願いが込められているといえるのではないでしょうか。

 

 ◇

 さて色にまつわるお話を最後にもう一つ。

 

 結婚式の時に白いウェディングドレスを着ることは、結婚前の行いが純潔で清らかだったこと、差し出された白百合であることを宣言するものでした。

 ミシェルは言います。

 

「ドレスの白さは、花嫁が〈白いガチョウ〉であるというのではなく、つまりその純真さ加減が愚かな世間知らずの馬鹿と同じだというのではなく、純潔で清らかな、差し出された白百合であることを意味していた」(p41)

 

 ところが白いドレスになる前、ずっと長い間、花嫁のドレスは赤色だったそうです。白は純潔と処女性のシンボル。聖書の文化伝統です。それなのになぜ赤色のドレスだったのか。

 

 その理由は、花嫁の義務としてもっているもののなかで一番きれいなドレスを着たことにあるそうで、当時の染料と染色技術の関係で、ほとんど決まって赤いドレスだったのです。(要約・p42)


 

 赤いドレスは、結婚の喜びを純粋に表すドレスだったのでしょう。自分の持っている最高のもので、愛する人と結ばれる結婚式に臨む。

 その花嫁の思いは、白のドレスであろうと赤いドレスであろうと変わりはありません。

 

 この白いドレスについての虚と実は……。書けないですね。自分も自信ないので。

 

 ◇

 さて、色をめぐるきょじつの話はいかがでしたでしょうか。

 

 たまには虚勢きょせいを張らなければならないときもあります。

 自分を勇気づけるためにする化粧だってあります。

 

 コロレ=単に色を塗るのではなく、色を与えるのなら、きっとそのきょもやがて実に結びつく。そう思ったりします。

 

 だから虚も実も大切なんじゃないかな。……もちろん、不誠実な虚は除いてだけど。


 

 ※川端康成『伊豆の踊子』は名作です。ぜひお薦めします。角川文庫でありますよ。

 草柳大蔵さんの『花のある人、花になる人』(グラフ社、平成13年)を読んでいて、次の話を知りました。

 

 足利義満の愛妾に「高橋殿」と呼ばれる女性がいたそうです。

 この女性は一生の間、落ち目になることなく出世したそうです。

 

 その理由は、高橋殿は、義満の気持ちのコンディションをよく読んで、お酒も飲ませるべき時は飲ませ、ひかえるべき時は控えるなど、色々と心を配ったからだそうです。

 

 このお話は世阿弥ぜあみが『猿楽談義さるがくだんぎ』(申楽談儀)で書いているのを、白洲正子さんが『古典の細道』で引用し、それを草柳さんが紹介したものを、私がここで書いています。

 ややこしいですが、孫々引きをしています。

 

 それはともかく、草柳さんはこういっています。

「私は、この本を『おもてなし』の極意ごくいを伝えるものとして読んだが、世阿弥がこのあとで、高橋殿の狄瓦鼎い瓩髻愎知り』と表現しているのに感心した。『色知り』とは『色好み』ではない。『人情の機微きびに通じる』ということである。心のタイミングやコンディションをわきまえているということである」(p40)

 

※『色好み』=情事にふける人、または洗練された恋愛ができる人。ここでは前者の意味でしょう。

 

 ネットの世界では相手の顔が見えないから、勢い舌鋒ぜっぽうが鋭くなり、相手の心を深くえぐるような言葉を使いがちになります。

 

 広いネットの海には、小学生からご年配の方まで多くの方々がいらっしゃいます。あたかも海に多種多様な生き物がいるように。

 しかも自己を守るためにアバターやアカウントで名乗り、本名を明かしません。

 

 それにもかかわらずに、知らず私たちは、目の見えない相手が、自分とほぼ同年代であるかのように接することが多いのではないでしょうか。

 

 その理由について私は、基本的に人は自分の経験をもとにしてでないと物事を判断できないからだと思います。

 

 ですが、相手は自分と違う年代かもしれない。自分とは違う経験をしてきた人かもしれない。自分とは違う国の人かもしれない。

 

 そう思うと、相手のコメントを多様性の一つとして受け入れ、その上で自分の考えを示さなくてはならないでしょう。

 

 頭で理解するでもなく、心で受け止めるのではなく、色眼鏡をかけずに受け入れるということ。これもまた色知りと同じく難しいことですね。

 

 とはいえネットの世界は危険な領域りょういきも含んでいます。多少の制限はかけられるとはいっても、基本的に国境が無い、ノー・ボーダーの世界です。思わぬところに落とし穴がある時も……。

 

 中高生や大学生、また大人の方もそうですが、自分の身は自分で守りましょうね。

 危険を感じ取る。それもまた「色知り」じゃないかと思います。

 

※もしまずいなって感じたら、ご両親や周りの人に相談しましょう。一人で悩むとより深みにはまりますし、一人で抱え込むより何倍もましですよ。


 

――――

あ、そういえば、サイクル的にそろそろ相方ネタの番が……。でもなぁ、段々、おおっぴらに書けない話になりそうで怖い(笑)。


 

【追記】

(カタカナを平仮名にしています)

「鹿苑院の御思い人高橋殿(東の洞院の傾城也)、これ、万事の色知りにて、ことに御意よく、つゐに落目なくて果て給いし也。上の御機嫌を守らへ、酒をも、強ゐ申すべき時は強ゐ、控うべき所にては控へなど、様々心遣ゐして、立身せられし人也」(日本思想大系『世阿弥・禅竹』、岩波書店、1974年、p306)

と確認できました。


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